今日から

日々を綴る

とどのつまり

人と人とを結ぶ糸を紡いでいくか行かないかは、詰まるところ好きか嫌いかということではないかと思っている。


「好き」は声や容姿かもしれない。話し方やセンスかもしれない。「好き」は部分的かもしれない。それでも関係を絶たないなら、「好き」の部分が多いからか残っているかだと思う。


離婚した知人、形だけの夫婦を何組も知っている。子に背かれた親も知っている。

義務感や円滑でないと不便だからということような「自己都合」による関係性は何かのきっかけであっさりと断ち切られる。(手続きは面倒だろうけど)


アドラーの「自分を変えれば関係は変わる」説にしても「好き嫌い」は変えられないのではないか。


蝶よ花よと育てられた子が親を「あんたの帰る家はもうない」と施設に入れた。身内の話。

親子の蜜月しか知らない身には、その後に起こった「事変」が蜜月を凌駕するものであったろうと想像するしかないけれど、そう、つまり大嫌いになっちゃったから?


夫のことを「愛はないけど必要な人」と言った友人がいる。

「そばに来ると嫌なのよ」という人も。

でもまだ一緒にいるのは、「好き」が残っているか「好きでいた自分」が棄てられないからではないか。


私は、、、、夫に対しては前者で、子供達に対しては後者です。残念ですが。