今日から

日々を綴る

はっきり言えない

「捨てなきゃ行進曲」に取り憑かれ、「必要性を感じないが愛着によって処分出来なかったものたち」を処分し続けた時期がある。


母が買ってくれた段飾りの雛人形、姑が娘たちひとりずつにくれたケース入り市松人形、私が大学時代に買った電子ピアノ、婚礼箪笥二竿。


人形を処分するのは勇気がいる。二人の母にはマンションの収納事情を匂わせ、

気持ちだけでと言ったが、二人とも譲らなかった。

「目があるものは嫌いなの」と言って、

家にぬいぐるみ・人形の類いを一切置かない友人がいる。なるほど!と処分の段になってよく分かった。

私はこの「嫌いなの」をはっきり言えないがために人生で色んなものを背負い込んでしまったなあ。今更ながら思うのだが、時すでに遅し。


部屋の中にデーンと陣取り、場所を塞いでいるもの、目が「捨てるの?」と言っているようで同居9年半で他界した姑が無言の圧をかけているような人形等々如何にせん!


魔法の言葉を見つけた。

「役目を終えた」

もらう時も捨てようとする時も、きっぱりと判断できなくて、もうぐずぐずの状況だった私に救いの言葉。

ありがとう、「役目を終えたものたち」。


で、人形は神社で供養しても処分してもくれるというので、そのように。巨大婚礼箪笥は、かつて根性で主のいなくなった子供部屋にひとりで運び込んであったが(不思議でならない。どうやってあんなものを移動できたのだろう。)、マヨって迷って、業者選びから始め姿を消す迄結構かかった。室内であっという間に解体されるのを見るのは辛かったが、取り敢えず長年懸案だったそれらは、なくなった。しかし出来た筈の空間が、愛着をねじ伏せて処分しても得た空間が、思うようなかたちで今有効利用されているかというと、なんだか否である。気が済んじゃった感じ。


また、「役目を終えた」に真っ向勝負を挑んで来る家人の「何かに使えそう」という言葉が最強。


「最近やっと当たった。しばらく飾っとく!」のシャープのマスク箱入り、10の単位に興味を持って遊んでいる孫にあげると言って捨てないネスレのコーヒーマシン用に取り寄せているポーションの細長い箱、薫製作りを始めて買い込んだグッズのあれこれ(半分は床下収納に入れた。事後承諾)。


やれやれ。

「捨てる」「片付ける」は夫との神経戦の様相を呈しています。

ゴミに埋もれて死ななければいいや、のレベルになりつつあります。


が、しかし!

諦めません。リビングはパブリックスペース。「ここに置いた方が便利よ」と頃合いを見て移動させる日々です。

めんどくさっ。