「たかが」と言えない
長く生きていると不思議だなあと思ったことの一つや二つ誰にでもあるだろう。
この前、「医者を選べ」という言葉を書いた後、思い出したことがある。
実はこの言葉は私が思い付いたのではなく、近所の神社のおみくじの言葉なのだ。
正月には家族揃って初詣でに行くのが習いだったが、その年は、次女のアトピーの治療は当時藁をも掴む思いで通っていた個人病院の治療法に疑問を抱いていた丁度その頃だった。
次女が引いたおみくじと私が引いたおみくじの番号が同じだった。
で、病に関する言葉も同様の「医者を選べ」。
これをどう読むか。
自分を取り巻く全てのことを変えるということに関して、時に地団駄を踏みたくなるように慎重な夫は、これをその時通っていた医者のままで行けという意味に捉えた。
既にこの時点で、おみくじなんて、、と言うひとも多いだろうとは思っている。
しかしながら、私にとってはおみくじなんて縁起物などと言えない状況だったのだ。
病人を抱え、それも我が子のこととなればどんなこともしたしどこへも行った。あと何をすればいい?心が弱っていた。
私は、治療に疑問があるなら変えるべきだという言葉と解釈した。「行け」というgoサインだと解釈した。
医者を変えるということは一大事である。もう戻らないという決断をしなければならない。
夫とは何度も話し合った。
結局24時間365日子供と向き合っている私の切羽詰まった様子に夫が折れた。
そして前回書いた私達親子を救ってくれた医師の所に赴いたのだった。
きっかけに過ぎないといえばその通りである。重症アトピーの子供を持つ親の苦しみはいつまで続くぬかるみかと思われる日々の中にある。そんな時、あの時あのおみくじが迷いの背中を押してくれた。見直しなさいとあの時降って来たものがあったと、今もそう思っている。