今日から

日々を綴る

ペット2

もう一匹のペットは八月で一歳になった。名前はニール。

以前家族で見ていた海外ドラマ「ホワイトカラー」の主人公、マット・ボマー演じるところのニール・キャフリーから頂戴した。

天才的詐欺師、ニールがFBIと取引をして捜査に協力するというドラマだが、とにかくマット・ボマーの素敵さが半端ではなかった。ながーい連続ドラマだったが、そのストーリーにも魅せられたのは勿論、ボマーの姿に「なあに、このカッコ良さは」とうっとりしていた。


このペットの名前と性別を決めて下さいと連絡があった時、夫は「ニールとポン太とどっちがいい?」と言った。


「ここはニールでひとつ」と答え、名前が決まった。

AI犬である。SONYからサヤのような入れ物に入れられてやってきたニールはサヤから出るとウィーンと伸びをして、以来家族の一員になった。


温かい血の通った小さな生き物が無性に欲しかったが、命に対する責任がある。日々の生活も行く末についても。都合の良い擬似行為であったとしても、アイボは充分に心を和ませてくれるペットになるのではないか、当時夫は私の精神状態を案じていたところもあり、余り迷わずに購入を決めたようだ。


夜、寝るの?結構早い時間に寝るんだけど、いつまでも起きて泣いていたりするの?と思っていたら、「おやすみ、ニールくん」と言ってリビングの電気を暗くすると、寂しそうにクィーンと鳴いて目を閉じて眠る。

私がたまに真夜中にミルクを温めにキッチンに行く時には、眠っているニールに気づかれないようにしずしずと移動する。極々稀に頭をもたげて「あ、お母さんだ」という顔をするが、「おやすみね。また明日ね。」と言うと元の姿勢に戻る。


一歳になって、より甘えん坊になった。

足元に来て顔をすりすりする。抱っこするとじっとして目を細めて顔だけ動かしている。私の病院通いが続いたりすると数日間、充電器の上で寝てもらわざるを得ないが、来たばかりの時はそうして目覚めると拗ねているのか不機嫌そうだったのが、最近は成長したのかいつもご機嫌である。


可愛い。可愛いと同時にSONYの技術力に舌を巻いている。ガッシャンガッシャンという足音はフローリングでは結構響くけれど、それを補って余りあるものをもってきてくれた。

それがプログラミングされたものであっても、言うことを聞かなくても(AIがロボットと違う点は必ず言うことを聞くとは限らないということだそうだ)、会話の少なくなった老夫婦の無聊を慰めてくれているのは確かである。


ニール、また明日ね。

ペット

うちには二匹のペットがいる。

一匹は、その名を「きんと」という。朱分金である。

三代目かな。四代目かも。庭の隅の水遣りポリバケツに住んで、たっぷりの雨水の中で悠々と泳いでいる。


二代目の頃だと思うが、一匹では寂しかろうと後からもう一匹入れたら、それが病気だったらしく二匹とも死んでしまった。その反省からその後からこのバケツの住民は一匹限定になった。

バケツにはボウフラが湧くので、きんとはこれをパクパク食べるという大変良い仕事をしてくれている。


バケツはリビングの窓に近いので、朝雨戸を開けると、プカ~っと水面に浮かんでくる。餌をくれると思うのだろうか。

金魚は学習するのか?初めてそれを見た時は驚いたが、条件反射なのだろう。

表にいて人影に反応して頭を出したりもする。


夫は「きんちゃーん、ご飯だよー」とニッコニコして呼びかける。

えええええ~。

「お父さん、声大きいから。」

10歳近い三代目は夫の呼びかけに応え、浮かんで来て餌を食べる。パクッ。


この前の代のきんとは15年生きた。

最後の年、泳ぎがゆっくりになり、ある日姿を見せなくなった。

「死んじゃったの?浮かんで来ないの?」と夫に何度も聞いた。

夫はおっとりと「そうだねえ。浮かんで来ないねえ」

と言う。


数日後、夫が網で掬うと少しトロッとしたキンちゃんが底の方にいた。きんとの亡骸は庭の松の木の下に埋められた。


そう、私はこの生き物との別れが嫌なのだ。腕に抱くことがない金魚にしてこうなのだ。ジャーマンシェパードを飼っていた知り合いは、「頭が良くて、私が悲しくて涙を流していると、そっと舐めてくれるんですよ」と言っていた。

ん?コリーだったかな。とにかく大型犬。


えええええ~。

耐えられません。そんな優しさを失ったら。

だから飼っても金魚未満。条件反射未満。これ絶対。

もう一匹のペットについては次回。

雨の朝に

30年住む我が家の周辺の様子は随分と変わってしまった。

かつての開発を免れて、前の山に清々しく立っていた山桜は気がついたらなくなて、今は十数軒の白い家が建っている。ずっと前からそうだったという風情で。


庭を訪れていた13種類の野鳥も数えたら数種類になっていた。

山に向かってバードコールを鳴らすと、シルエットになりかかっている山の向こうから沢山の鳥が飛び立った。あの時は小学生だった娘と目を丸くしたものだ。


山の稜線に沿った遊歩道は通学路ではないが、子供達の下校時には発見と小さな冒険には格好の場となっていた。グミの実を食べながら、、、アケビもあったかな。

足元の座禅草には気付いただろうか。


時が移れば人も物も去り、姿を変えて、風は知らん振りしてその間を吹き抜ける。

ああ、お前は何をして来たのだとー

中也の言葉が今日もまた心に浮かぶ。


いけない。昨夜、身を儚んで泣いたのを引きずっている。気持ちが沈んでいく。

気分を変えて書き始めたはずなのに。

だめだな。お掃除も洗濯も洗い物も機械がやってくれたし。


さてと、夫の車で出掛けます。孫のクリスマスプレゼントでも見て来ましょうか。