今日から

日々を綴る

春の日差しの中で

今日は何をしようかと、毎朝の少しばかりのルーティンを終えると考える。

私でなければならない、私が動かなければと意気込んで向かうことは何も無い。


脚も痛むし、今日は一日横になっていようかと思ったりもする。

そうしたところで誰も困らないのだ。

ふとこの無気力に身を任せてうつらうつらと過ごしてみようか。


ところがちらりと横切ったその考えの傍からそれを掻き分けて漫画の吹き出しのように次々と「思い」が湧き出て来る。

いったい、「心を無にする」とか「瞑想」とかそういった雑念に塗れることのない状況はどうやったらできるのかとまた新たな吹き出しで考える。

そして「やっぱり起きようか」の吹き出しを見て、私の日常が始まる。


平均寿命も平均余命も意味はない。「生きる」ことは意欲を持って生活し、そこに喜びを感じることができる健康余命の中にある。


ならば気息奄々たる健康状態で、もはや健康余命という輝かしい余生を望めない自分の毎日は、生きているといえるかと、、、それももう考えるのはよそう。



リビングのカーテンは、ほぼ開け放ってある。掃き出し窓の向こうに、夫が育てている鉢を花芽が付いた順に置くようになったのはいつからだろうか。

春の日差しの中、椅子に座って今を盛りと開いている白梅を見ていたら、メジロが蜜を吸いに一羽、それを追いかけて来たようにもう一羽。


うっすらとピンクを帯びた花芯をつついてメジロは飛び立った。夫と二人、「あ」「キタキタ、メジロちゃん」(何にでもちゃんをつける夫)「メジロ行っちゃった。ああ、絵のようだったね」


これが私たちのある日のハイライト。出来事らしい出来事。

たまさか孫が来て遊んでいけば、二人して夕方にはぐったりと無言になったりして。メジロを見ているくらいが丁度いい。

やがてこんな日々も終わるのだ。不健康寿命の中の平穏を慈しんで、二人で過ごせる時間を刻んで行こうと思った日のこと。